壺の碑新伝説

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 壺の碑(つぼのいしぶみ)とは、坂上田村麻呂が大きな石の面に、弓の筈で文字を書いたとされる石碑であり、歌枕としても著名である。

 九世紀初頭、大和朝廷による蝦夷征夷が北上し、坂上田村麻呂征夷大将軍が陸奥の地、津母(つも、つぼ-現在の青森県東北町、七戸町を中心とした上北地方とされている)の地に、大きな石の石面に弓の筈で「日本中央」と彫り、建立したとされている。
 その後、「つぼのいしぶみ」として都に知れ渡り、多くの歌人に詠まれた。

 文治年間(1185~1190年)に歌学者藤原顕昭が著した「袖中抄」では、

  『顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。
   日本の東のはてと云り。
   但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に
   日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。
   信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。
   其所をつぼと云也。(それをつぼといふ也。)
   私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、
   陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。』

とある。

 壺の碑のことは、藤原清輔、寂蓮法師、西行法師、慈円、源頼朝、藤原仲実、藤原顕昭、和泉式部、南部重信、高山彦九郎、岩倉具視、大町桂月らの多くの歌人が詠っている。

 西行は山家集で「みちのくの 奥ゆかしくぞおもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風」と詠った。


 宮城県多賀城市にある多賀城跡の多賀城碑が壺の碑ではないかとする説がある。

 西行などを慕って紀行した松尾芭蕉は、「おくのほそ道」でこれを記しているが、菅江真澄らは碑の文面や距離的な問題を指摘し、否定している。
また、明治時代の歌人たちも、多賀城碑が壺の碑であると解している人は少なく、私が一昨年に多賀城碑を訪れたとき、地元の人たちも否定していた。

 青森県の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に、人数千人で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。

 千曳神社の伝説

 彼の家に代々言伝ふることには、神代の時に石の札を建て、
 其石を限りに北方の国より渡り来る鬼をば追返せし事なるに、
 悪鬼の来りて其の石を土中へ深く隠せしを、神々達の集り探し出し給ひし所こそ石文村にて、
 其石を建し所は坪村に有りしを、坂上田村麻呂来たり給ひ、鬼を残りなく殺し給ふ故に、
 此石は無用とて此所を七尺掘て埋め給ひ、其上に社を建立なされし事にて、
 其石を坪村より是迄引とるに人数千人にて引しを以て千引大明神と申なり。
   東遊雑記 古川古松軒著 天明8年(1788年)

 ところで、坂上田村麻呂は現在の岩手県水沢付近までしか北上しなかった。実際に都母(つも)に行ったとされる武将は田村麻呂の次に蝦夷を追った文屋綿麻呂である。しかし、古い事柄を、英雄である田村麻呂に関係付ける傾向は多く見られる。
実際に綿麻呂が碑に文字を書いたとすれば弘仁2年(811年)頃の出来事になる。

 壷の碑は、ながらく所在が不明であったが、明治天皇が東北地方を巡幸する際、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下り、明治9年(1876年)に、県をあげて探索させ、社殿の下を発掘したり、周辺を探したが発見に至らなかった。

 日本中央碑は、昭和24年(1949年)6月21日、甲地村(現東北町)千曳集落の農業川村種吉氏(当時七十四歳)によって、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の赤川支流の湿地帯より偶然発見された。

 日本中央の碑の発見後、地元は大騒ぎとなり、新聞社や学者や歴史家が調査鑑定を行ったが、多くの諸説があり、本物の壺の碑であるとの鑑定は、はっきりとは出されていない。

 現在、東北町・日本中央の碑歴史公園にある日本中央の碑保存館に、この石碑は保存されている。



 私は今年、平成奥の細道で青森県を歩いたが、9月15日に千曳神社と日本中央の碑保存館を訪れた。

 千曳神社は七戸町にあり、保存館とは町が異なるが直線距離では1km程度しか離れていない。千曳神社は、建立が大同2年(807年)といわれ、ちょうど今年で創建1200年にあたり、1200年祭が催された。

 私はブログに次の記事を掲載した。

   壺の碑伝説の千曳神社の狛犬(Blog雅爺の小部屋 9月23日記事)
   http://masaji.at.webry.info/200709/article_53.html

 1ヶ月程経った10月19日、同記事に一通のコメントがあり、発信者名とコメントを読んで驚いた。
千引さんと言う苗字の方から、

 「明治天皇の東北巡幸の時に、当時幼少であったご先祖が日本中央の碑を発見したことを口伝で聞いている。」 

という内容のコメントであった。


コメント(2007/10/19 13:09)抜粋

自分は「千引」という苗字です。先祖(!?)長松と由松は青森・天間林出身で明治期に北海道に渡りました。
幼い頃、父に聞いた話しですが、北海道に渡った先祖が子供の頃、青森に政府の役人が来て、この「日本中央」石碑を村人総出で探した際に長松・由松どちらかが見つけたんですが、幼かったため申し出なかったとのことです。
そのまま、石碑を誰にも見たことを話さずに北海道に渡り、暫くして子・孫の身内に話したそうです。
しかし、田舎なので話題にもならなかったんでしょうね。
長松・由松はニシン漁の最盛期の親方になってたし、まわりはこの石碑の重要性を理解してなかったのでしょうね・・・・・
その後昭和24年に石碑は発見されたそうですが、今思うと自分の父が子供の頃この話を聞く後のようですね。
父は大正7年生まれです。
 ・・・

千引(ちびき)さんは、偶然、私のブログ記事を発見し、幼い頃、父が話してくれた話を懐かしく思いコメントしたそうだ。

 早速、詳細を確認するため、コメントやメールを交換し、調査整理をした。

既に、千引(健靖)さんの父親は他界しているし、この口伝を知っている親類を探したが見当たらないので、口伝で聞いた話以上の詳細は不明である。
長松さん・由松さんの生誕年も不明であり、過去帳で調べた没年から逆算し、長松さん・由松さんの生年を推定した結果、由松さんが発見者であろうと推定した。

これらの結果、口伝の内容と史実との合致度が高く、
「千引健靖さんの曽祖父千引由松さん[推定1865年(元治2年/慶応元年)生まれ]は、12歳(数え)の頃の明治9年(1876年)に日本中央の碑を発見したが届け出なかった。それを健靖さんは由松さんの最年長の男孫である父の豊さん経由で口伝で聞いている。」
と言う結論を得た。

石碑発見の届出がなく、千引家の口伝であることから、千引由松さんが日本中央の碑の公式発見者であると断定できないが、口伝の石碑と保存されている日本中央の碑とが同一物か否かのいずれであっても、

 「時空を超えた歴史の浪漫を馳せた、新たな壺の碑伝説が出現した。」

と言える。

もし、由松さんが発見した石碑がまだどこかに眠っているとすると、また新しい宝探しが始まることになる。



参考

・壺の碑伝説-「日本中央」の碑  田中寿明
・つぼのいしぶみ(Wikipedia)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%BC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%B6%E3%81%BF

関連

・壺の碑伝説の千曳神社の狛犬(Blog雅爺の小部屋)
 http://masaji.at.webry.info/200709/article_53.html

・「壺の碑」に新説?「日本中央の碑」は明治9年に発見(インターネット新聞JANJAN)
 http://www.news.janjan.jp/culture/0711/0711085354/1.php



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