野火止用水

野火止用水がある。

川越城主松平伊豆守信綱が、私領である野火止台地を開発するため、
承応四年(一六五五)に開削した。

現小平市小川町の玉川上水分水点から新河岸川まで全長約25キロメートルに及ぶ。

平林寺堀、陣屋堀などの支流もある。

玉川上水
画像
新河岸川


ここは用水分岐点で、左が本流、右が平林寺堀。

平林寺堀は信綱の菩提寺である平林寺まで続く。

画像


現在では見られないが、説明板にあった野火止用水使用風景写真。

撮影時期は不明。

画像


用水沿いに遊歩道が整備されており絶好の散策路となっている。

2007年9月2日撮影
埼玉県新座市

関連

平林寺
http://masaji.at.webry.info/200708/article_26.html



埼玉県指定文化財 史跡 野火止用水
 昭和十九年三月三十一日指定

 野火止用水は、承応四年(一六五五)に、川越藩主である松平伊豆守信綱により、武蔵野開発の一環として、野火止大地開拓のため必要とする生活用水の確保を目的として作られた用水路です。
 用水は、多摩郡小川村(現、東京都小平市)から野火止台地を経て新河岸川に至るまでの全長約二十五キロメートルにも及びます。
 松平信綱は、川越に入府以来、領内の新田開発を推進する一方、原野のままであった台地開発に着手して、承応二年、野火止台地に農家五十五戸を入植させて開拓にあたらせました。
 しかし、関東ローム層の乾燥した台地は飲料水さえ満足に得られない土地であったため開拓農民の困窮は、はなはだしいものがありました。
 承応三年、江戸幕府の老中職にあった松平信綱は、玉川上水を完成させた功績により、玉川上水から三割の分水許可を幕府より得て野火止用水の開削にとりかかりました。
 工事は、家臣の安松金右衛門らに命じて、承応四年二月十日に始まり、約四十日後の三月二十日ころには完成したといわれています。
 その後、平林寺堀、陣屋堀などの支流が作られましたが、豊かな水を得た土地の人々はこの工事に深く感謝して、野火止用水のことを「伊豆殿堀」とも呼びました。
 平成二年十二月
   新座市教育委員会
   新座市文化財保護審議委員会
  文化財を大切にしましょう。


埼玉県指定史跡 野火止用水
 昭和十九年三月三十一日指定

 武蔵野のうちでも、野火止台地はとくに高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応四年(一六五五)野火止用水を開削しました。工事は家臣の安松金右衛門に命じて行なわれ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川までの約二十五キロメートルについて開削しましたが、のちに新河岸川に、いろは四十八の桶を架けて、志木市宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。また、寛文三年(一六六三)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水堀を開削して引水しました。
 幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「菅沢・北野堀」・「平林寺堀」・「陣屋堀」と呼ばれています。
 用水敷は、おおむね四間(七・二メートル)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土あげ敷をもっていました。
 水路は、地形的に高いところを選んで掘りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への灌漑および沿線の乾燥化防止に果たした役割りは、きわめて大きいものでした。
 野火止用水の流れは、昭和三十七・八年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。
 そこで昭和四十九年度から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺堀の一部を復原しました。
 平成九年三月三十一日
  埼玉県教育委員会
  新座市教育委員会

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック